起業のきっかけは会社の解散
みんなの+αに
株式会社フライング・ハイ・ワークス
代表取締役社長 松田治人さん
スタッフの人当たりのよさが顧客からも好評のWeb制作会社、フライング・ハイ・ワークス。
同社の社長であり、現役のWebエンジニアでもある松田治人さんに、起業のきっかけや会社に対する想いを伺いました。
会社の解散をきっかけに起業。最初の仕事はクラブ情報誌
―御社の事業内容について教えてください。
フライング・ハイ・ワークスは、Web制作を主な事業としています。
紙の制作は、昔は雑誌をやっていましたが、今はパンフレットや名刺を制作するくらいで割合としては少ないですね。
Web制作はシステム開発も含めて一貫して請け負っており、コーポレートサイトやキャンペーンサイト、いわゆるオウンドメディアなど、幅広く対応しています。
―どのような経緯で起業されたのでしょうか?
起業のきっかけは、それまで働いていた会社の解散でした。
1995年頃に大学時代の先輩がクラブを運営する会社を立ち上げて、パソコンが触れた僕はそこでIT担当として働いていたんですが、5年ほどで解散してしまったんです。
当時の僕は、都内のクラブの店舗情報とかDJ機材の情報をまとめたメールマガジンを配信していたことをきっかけに、
リクルートさんから『クラブガイド』というクラブ情報誌を出版していました。会社が解散してしまうと、雑誌を作れる場所がなくなってしまう。
それで、デザイナーをしていた弟を誘って会社を作ったのが、今のフライング・ハイ・ワークスです。
だから、当初の仕事は雑誌だったんですよね。他には、クラブのお客さんがフライヤーや、Web制作の仕事をくれることもありました。
―もともと起業しようと考えられていたわけではなかったのですね。
自分から起業しようという考えはありませんでした。解散した会社の会長からは、「インターネットの仕事は儲かりそうだから起業しなよ」って言われていて、
結果的に背中を押された形にはなったのですが。起業したいというよりは、組織がなくなってしまうことが不安でしょうがなかったので、
自分で代わりに組織を作って安心したかったんだと思います。
もともと、父も祖父も弁理士だった影響で、僕も大学卒業後は弁理士試験の勉強をしていたんです。
父からも、後を継ぐことを期待されていたように思います。だから、まさか自分が社長になるなんて想像していませんでした。
ただ、弁理士の勉強はいくらやっても面白くなくて、僕には合っていなかった。
それで、先輩の会社に入ってしばらくすると、弁理士の勉強のほうはフェードアウトしてしまいました。
ゲームを通じてプログラミングを学んだ中学生時代
―初めてパソコンに触れたのはいつ頃だったのでしょうか?
中学校1年生の時に、父にパソコンを買ってもらったのが最初です。1982年くらいのことですね。
当時は、ちょうど大手メーカーが初期のパソコンの代表作を発売していた頃で、パソコンブーム。
父は自分では一切パソコンに触ることがなかったものの、比較的興味は持っていて、僕には触れるようになっておいたほうがいいと考えていたようです。
まずは、プログラミングの本を買ってきて、短いプログラムを自分で打ち込んでみるところから始め、徐々にBasic言語を覚えました。
中学校には、科学部パソコン班というものがあって、生徒が自分のパソコンを持ち込んでプログラムをいじったり、ゲームをしたりしていて。
僕もその班に入って、まだカセットテープだった時代のゲームをレンタルショップで借りてパラメーターをいじるなんてことをしていましたね。
初期の『信長の野望』とか。当時のゲームは、今のように複雑なプロテクトはかかっていなかったので、プログラムコードがいじれたんですよ。
―その後、どのような学生時代を過ごされたのか教えてください。
中等部から早稲田実業学校に在籍していたので、高校はそのまま進学し、大学は早稲田大学の社会科学部に入りました。
当時の僕は、特に夢みたいなものを持っていなくて、社会科学部には推薦で入れるからという理由で入ったんです。
大学時代は、勉強はそこそこにやりながらも、結構友達と遊んでましたね。渋谷の街に出たりとかして。
考えてみれば今もそうなんですけど、友人とのつながりは、学生時代から一貫して僕が大切にしていることの一つです。
今も、人の誘いは断らないですよ。それは、人とつながってないといられないという寂しさの裏返しでもあるんですけどね。
その意識は会社を立ち上げた今も残っていて、仕事でもプライベートでも人とつながっていたいっていう気持ちが強くあります。
―昔から、トップになりたいという想いはあったのでしょうか?
トップになりたいとか、一番になりたいという気持ちは、子どもの頃から密かにありましたよ。
ただ、僕は目立ちたがり屋な部分を持ちつつも、すごく恥ずかしがり屋なんですよ。
だから、何かのリーダーをやるにしても、周りから言われるとやるんだけど、自分から「はい!」と手を挙げるタイプじゃなかったんですよね。
誰かに推薦されたからって理由が必要だったんです。引っ込み思案だったから、誰かに背中を押してほしかったのかもしれませんね。
お客様のため、スタッフのため。 会社は苦しいときも続けていく
―起業からこれまでで、一番大変だったことは何ですか?
僕にとっては、スタッフが会社を去るのが最もつらい。そのつらさを一番味わったのは、リーマンショックの時でした。リーマンショックが起きた翌年の2009年には売上が3割程度落ちてしまい、それまでのWebサイトを用意しておけば引き合いがあった状態から、一気に仕事が減りました。それで、当時10名ほどいたスタッフ全員を食べさせていくことが難しくなってしまって。当時使っていたオフィスから、もっと賃料の安いオフィスに移転するなどいろいろと切り詰めましたが、結局3名に辞めてもらわざるを得なくなってしまいました。人とつながっていたいという気持ちの強い僕には、一緒に働いてきたスタッフを辞めさせなければならないのは、本当に苦しい決断でした。
―会社に対する想いを聞かせてください。
会社は、ずっと続けなければならないと思っています。経営が苦しかった時に、「会社をやめられるのか?」と自問自答したことがあるのですが、結論は「やめられない」でした。働いてくれているスタッフもいるし、仕事を依頼してくださるお客様もいますから。これまで17年間会社を続けてきて、誰かの役に立っている部分があるということを考えると、やめられないものだと感じます。いくら仕事は減ったとしても、お客様から声をかけていただける限りは、その気持ちに応えていきたいと思っています。
当社のスタッフは、お客様からも「いい人が多い」と褒められるほど人柄のいいメンバーがそろっています。これからも長く一緒に働いていけるよう、スタッフから「この会社にいてよかった」と誇りに思ってもらえる会社にしていきたいですね。給料も環境も、もっとよくしてあげたい。そのために、会社を少しずつサイズアップしていくことを考えています。今は私を含めて16名いますが、お問い合わせが増加しており、人手が足りない状況です。2017年4月に、これまでより1.5倍の広さがあるオフィスに移転したので、これから人を増やすとともに、売上も伸ばしていきたいと思います。
―最後に、起業を目指す人へアドバイスをお願いします。
起業したいなら、覚悟を持って飛び込むことです。「ダメだったら会社員になればいいや」という半端な気持ちではうまくいきません。覚悟を決めて飛び込んで必死にもがけば、最初の数年はなんとかなります。そして、続ければ続けるほどに経営が回っていくようになるものです。僕自身は飛び込む勇気はなくても、会社がなくなってしまって後に引けない状況でした。でも、運よく、中学時代から好きだったパソコンから仕事が広がっていった。誰にでも、そういった自分が持っている素地というものが絶対にあると思います。それが活かせる業界に飛び込んでいけば、1人でも月に20万、30万円を稼ぐことはできると思いますよ。
それから、仕事をしていると誰かに助けてもらわなければいけない場面も出てきます。協力者になってくれる人はどこにいるかわからないものです。だから、交流会には積極的に顔を出しておくといいと思います。名刺を交換して一緒に飲んだ人が、それからずっと後になって仕事の依頼をしてくれることもあります。その時々に出会った人を大切にしていくと、意外な場面で助けてもらえることもあるかもしれません。
PROFILE
プロフィール
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- 株式会社フライング・ハイ・ワークス
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代表取締役社長松田治人さん
1970年生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。2000年にWeb制作会社フライング・ハイ・ワークスを創業。